“大切なもの”を考える ~29歳、等身大の防災観~

等身大の防災観
コラム

防災へのリアリティを持ちたい

この記事でお伝えしたいことは、シンプルに「あなたも防災や備えをしていきませんか」の一言に尽きる。ホヤホヤの防災ビギナーである私なので、人に提案できるほどの何かできているわけではないのだが、だからこそ今回は、私を含めた読者のみなさんが「自分は大丈夫」という正常性バイアスを抜けて、どうしたら防災にリアリティを持てるようになるか、自分事としてとらえやすくなるかを考えたい。
まずは、29歳・地方(福島県)在住の私の「等身大の防災観」からお伝えしよう。

29年間の災害遭遇歴

自然災害においての大小さまざまな“後悔”が、これまでに福島で、日本で、世界で、身内で、他所で、たくさんあったと29年生きてきた中で感じている。
私個人の経験にはなるが、これまでの「災害遭遇ヒストリー」を振り返ってみると、案外身近に経験してきたことに気がつく。

2011年3月11日 東日本大震災

3.11の東日本大震災を、私は高校三年にあがる直前に経験した。
当時暮らしていた地域は、福島県を縦に三等分したときの真ん中にある「中通り」。住宅にヒビが入ったとか、家具の破損だとかはあったものの、沿岸部ほどの甚大な被害は出ていない。マンションの15階に住んでいたので、正直家の中はめちゃくちゃだったけれど、インフラが無事だった祖父母の家にしばらく世話になることで難を逃れた。物も足りていたし、原発の放射線の影響での活動制限もあったが、まもなく学校生活も再開された。
一方で、目の前や身近で大変なことが起きているにも関わらず、当時高校生だった私の意識は、そのことをどこか遠い他人事のように捉えていたところがあった。親や大人たちに任せればいいと、どこかで感じていたのだ。

2019年9月 令和元年東日本台風

高校を卒業して上京し、5年間の東京生活を経て、福島にUターンして半年ほどたった頃。令和元年に、台風19号によって一級河川の阿武隈(あぶくま)川が氾濫するという水害が発生した。「水」の名がつく地域や、標高が低い地域は浸水被害に遭い、学校では部活動の楽器や道具が浸水して使えなくなってしまったところもあった。この頃フードデリバリーの仕事をしていた私は、被害後の片付けに追われている家に注文を届けることもあった。家の中に広がる汚泥と、住民の疲弊ぶりを目の当たりにした。
しかしそれでも、私の災害に対する危機感はそこまで変わらなかった。

2021年2月13日 福島県沖を震源とする地震

令和3年、福島県沖で震度6強の地震が起きた。3.11からまもなく11年が経とうとしている頃だった。巨人が家を揺らしているんじゃないか?と思うくらいの、あの長い長い縦揺れ。また来てしまったのかと、この時ばかりは流石に戦慄が走った。結果、その時も命の危険にさらされることはなく“大丈夫だった”わけだが、本棚に飾っていた大切なものが割れたりと、久々に喪失感が強く残る災害ではあった。さすがに備えを見直そうと、玄関に置かれた非常持ち出し袋を開けてみたが、近場の公園にピクニックにすら行けないほどに使えるものがなかったことを覚えている。

災害が起きても運良く無事続きだった私の防災意識は、現在に至るまで何も変わらなかったというのが正直なところだ。災害後も生活は続いていくし、実際には防災よりも優先したいことが日々の暮らしの中にはたくさんある。もちろん災害に直面した時はいつも、「今度こそは」と備えに対しての意識が上がるのだが、しかしそんな危機感も時が経つにつれ少しずつ日常に紛れて薄まっていってしまう。これまでずっと、そんなことの繰り返しだった。

「にげて!」の声が気づかせてくれたこと

今年の元旦に起こった能登半島地震。震度7の揺れと津波による被害は、今も被災地に大きな傷跡を残している。
地震発生当時、ニュースでは大津波警報が発表され、ニュースキャスターの怒号に近い、緊迫した「にげて」のアナウンスが何度も繰り返されたことは記憶に新しい。これは3.11の教訓として、意識的に行われたことだと言う。
その声は、能登から遠く離れた福島にいる私の心のバイアスをも突き破った。

いのちが脅かされている寸前の状況がそこにあるということに、ハッとさせられた。
「地震大国」と呼ばれてきた日本ではもう“起こらない”ことなんて無く、その心づもりで、災害と隣り合った生活をどんな場所でも考えていかねばと思い知らされた。

自分の周りや他所で災害に触れても、教訓は得られたとて“危機感”は持ちにくい。これは私の実体験からも言えることだ。でもだからこそ言えるのは、痛ましい事が起こってから振り返るのではなく、いかに日常の中で「想像して、気づく」ことが大切であるかということ。それこそが、自らを守る防災意識の土台になっていくのではないだろうかと思う。

このことをきっかけに、これまでのぼんやりとした私の防災への“興味”が、“行動”へと少しずつシフトし始めていった。

それで今、なに備える?防災を通して“大切なもの”を考える。

防災や備えを考えるというのは 自身の暮らしを「分解して振り返る」ことだと私は思っている。家族だとしても、会社や学校、家…とそれぞれが一日を過ごすシチュエーションは異なる。車社会に生きる私と、電車やバスでの移動が多い都市部の人では、行動パターンだって違うだろう。巷にあふれる防災グッズのリストを見ると、こんなに揃えなきゃいけないのか…と腰が重くなる感も否めない。
そこでまずはミニマムに、「一人の1日分の備え」をしてみるのはどうだろうかいうのが私の提案だ。

carry the sun

carry the sun

持ち運べるソーラーランタン『CARRY THE SUN』。小さくたためるのでかさばらなく、防災グッズとしても優秀。

手始めに、年始に東京に行く機会があったので「電車が止まって、歩いて帰らなければならないことがあるかも」という想定をして、東急ハンズで防災グッズの買い出しをしてみた。エマージェンシーシートが予想より薄く小さかったので、試しに購入。ペットボトルの7年保存水や、カロリーメイトやゼリーなども買ってみた。普段間食をしないので、食品をバッグの中にストックしておくのは私にとっては新鮮なことだったが、これが私の「1日分の防災」として、ちょうどいいと感じている。

巷には、“しっかり”とした防災グッズの情報や備えに関するまとめ記事が溢れている。しかし「人にはひとの乳酸菌」よろしく、「人にはひとの備え」があるはずだ。そしてそのためには、“自分にとって必要不可欠なものは何か”を考える必要がある。防災とはつまり、「自分にとって大切なもの」と向き合うことでもあるのではないだろうか。
まずは、“自分にとって大切なもの”を考えるところから、あなた自身の防災をはじめてみるのはどうだろう。

アンドウエリ

須賀川市 / 郡山市出身。152cm。 虚無と祈りを往復するクヨクヨ音楽家。 『暮らしにちかい 音楽の愉しみをつくる』を自身の軸に、打楽器・マリンバを演奏す...

プロフィール

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