初夏をつげる奇祭『きうり天王祭』への邂逅と〝祭り〟の再考。

幼少から特撮ヒーローが好きで、「須賀川市といえば円谷英二監督とウルトラマン」というのは、子供心にもふんわりと認識していた。高校生になると、郡山から臨時列車で須賀川へ向かい、『釈迦堂川(しゃかどうがわ)花火大会』を楽しんだ。
進学で上京した後、ふたたび福島に戻ってきてからは、須賀川市民交流センターtetteやその周辺で商いを始める人、人が集う場が増えてきた旧市街地のまちの成り立ちに興味を持ち、この数年、須賀川にはよく出入りをするようになっていた。
こうした節々で須賀川の伝統や文化の恩恵を受けてきた私だが、まだまだこの地について知らないことは多い。
例えば、夏の風物詩『きうり天王祭』について…。
2本おさめて1本もらう、〝きうり〟の祭り。
きっかけを忘れてしまったが、須賀川在住の人たちが居合わせる場で「きうり天王祭が7月にあるね」と誰かが話し始めた。
き う り …?
私の「?」を他所に、「そうだね!」とそのまま会話は続いていく。
おお待ってくれ…
私:「キウリテンノウサイってなんですか?」
須賀川人:「家から持ってきたキュウリを2本を供えて、新しい1本と交換してもらう祭りだよ」
誰に聞いてもほぼこの返答が返ってくるのだ。
なんでも交換してもらったありがたいキュウリを食べて、無病息災を願う祭りとのことだそうだが…?
須賀川の『きうり天王祭』のはじまり
『きうり天王祭』の起こりは江戸時代に病が流行した際、現在の旭ヶ岡公園にある岩瀬神社に祀られている疫病除けの神・牛頭天王(ごずてんのう)にキュウリを奉納したところ、疫病がおさまったことに端を発する。このことをきっかけに、後に市内の旧三丁目(現:南町)付近の広場に御仮屋(おかりや)を設置し、そこへキュウリを持参して供えるようになったそうだ。現在はキュウリを2本奉納し、供えてある別の1本とお米の護符(ごふ)、うちわを受け取る形式で落ち着いている。
祭りは毎年旧暦の6月15日(現在の7月14日)に行われており、なんと260年以上も続いているそうだ。

約30年前の様子。祭りが平日開催となると学校は短縮授業になるらしい。出かける時にはお母さんから「キュウリ持った?」と言われる光景もあったようだ。(写真:知人提供)
また今回「牛頭天王」と「キュウリ」について調べたところ、面白いことが分かった。
牛頭天王とキュウリ、そして須賀川。
まずは、キュウリのルーツを辿ってみた。3000年前のインドが原産地とされており、そこから西アジア地域、中国辺りで栽培され、シルクロードを経由して日本に伝来している。中国から見て西方を「胡」と呼んでいたので、西の瓜で胡瓜と書くようになったのだとか(〝胡桃〟や〝胡椒〟も同様)。
牛頭天王のルーツもインドにある。釈迦が説法を行なったとされる「祇園精舎」の守護神であり、日本に伝来した後に京都に祀られ、その場所が「祇園社」、現在の京都八坂神社となった。日本三大祭りである祇園祭は、もとを辿ると牛頭天王を祀る祭りだったのだ。
ここから牛頭天王の信仰は全国へと広まっていく。*¹
キュウリと牛頭天王との関係は、八坂神社の家紋がキュウリの断面に似ていることから、祇園祭の最中にキュウリを食べるのを禁忌とした等をはじめ、エピソードには事欠かない。こうして牛頭天王とキュウリは切っても切れない関係性になったと言われている。

家からキュウリを持参できない場合には、御仮屋付近で購入することもできる。こちらはずっしりと重く、立派だ。
インドから京都へと思いを馳せたところで、話は再び須賀川へ。
「キュウリ×祭り」は他地域にもあるのだが、須賀川のそれは中でも一目置かれる“奇祭”と呼ばれている。須賀川の土地と気候は夏秋野菜の栽培に適しており、中でもキュウリは「岩瀬きゅうり」というブランドが全国でもトップクラスの生産量を誇っている。旬の時期には農家だけでなく、家庭での栽培も盛んで、夏にキュウリのお裾分けをし合う光景も珍しくない。特産品である「キュウリ」と「祭り」がうまく組み合わさったのが、須賀川の『きうり天王祭』の特徴とも言える。
また、1970年代の高度経済成長による露店の出現も、須賀川の『きうり天王祭』の盛り上がりに寄与した。来場者は万単位で増加し*²、現在では御仮屋が建つ県道355号から本町の交差点までの通りに120以上も露店が軒を連ねる。
こうして祭は大衆化し、須賀川の初夏の風物詩となっていったのだ。

13日と15日の神輿渡御では、町内の通りを往復する。
きうり天王祭と町内会の“祈り”
須賀川にはもう一つ、初冬を告げる“火の祭り”『松明あかし』がある。この祭りの運営は長年かけて行政主導に切り替わっていったのだが、一方できうり天王祭は昔から変わらず、「三丁目町内会」が中心となって運営を続けている。氏子である三丁目の住民にとって、きうり天王祭は大事な祭事であり、30代〜50代の幅広い層が団結して、毎年4月から準備を始めるそうだ。
祭りの日取りは、260年前から変わらず毎年7月14日が「宵祭り」と決められており、その前日には「お迎え祭」、翌日には「本祭」と「お送り祭」が開催される。日付固定のため年によっては平日開催になるので、人員やスケジュールの確保が難しい時もあるだろう。しかし、「夏が始まり、暑さが厳しくなるにつれて流行り出す病を封じる」という意味合いがこの祭りにあるからこそ、ライフスタイルが変わってもこの日取りは譲れないのだと言う。
実際に三丁目の方に話を伺ったところ、「地域のとても大切な祭事なので、勤め先にも理解してもらえて、休みを取れている」という話を聞いた。キュウリ奉納のある14日の宵祭においては、13時〜21時の間はほぼ絶え間なく、参拝者一人ひとりにしっかりとキュウリの受け渡しを行う。町内会で適宜交代したとしても、これは中々に大変だ。
この大変な運営を、意図を残したまま簡略化することも可能だとは思う。しかしコロナ禍の中止期間を経て祭りを再開した後も、この形式は変わることはなかった。それだけではない。隣の四丁目住民の手伝いや神輿渡御での警察の誘導協力、女性会のサポートなど、何十人もの人たちの力があったからこそ、この祭りは成り立ってきたのだ。
「御仮屋前にずらっと並ぶ列を見た時や、お参りされるところを目の前にすると、今年も無事開けてよかったなあ、という気持ちでいっぱいになります。」
こういった言葉や祭りへの真摯な態度から、三丁目町内会の人々の地域に対する“祈り”と、この祭りを260年間繋ぎ続けたという“誇り”を、私は感じる。

7月13日の御神輿設置の様子。
“祭り”とは、連綿と続いてきた“思いやり”
人が減り高齢化が進んでいく中で、いつか祭りの維持が困難になっていく局面も出てくるかもしれない。そしてそれはきうり天王祭に限らず、全国で起こりうることだ。
祭りとは、運営と参加者の双方があって成り立つものであり、参加者は愉しむ以外にも、自分たちも祭りの“当事者”であるという認識が、これからはさらに大事になってくるのではないだろうか。
私たちの心を潤す伝統や文化は誰かの手によって紡がれ、そしてそこに誰かを思う“祈り”が込められているからこそ維持されている。そのことを忘れてはならない気がするのだ。
今回のレポートがきうり天王祭や街への新たな気づきとなって、未来について考えるきっかけになれば幸いである。
きうり天王祭概要
★スケジュール
13日 | 御仮屋設置、お迎え祭・神輿渡御(19時〜) |
14日 | 宵祭 ※きゅうり奉納(13〜21時) |
15日 | 本祭とお送り祭・神輿渡御(19時〜) |
※13、15日の神輿渡御では午後7時頃より神輿が御仮屋の通りを往復する。
★会場
須賀川市南町の東北電力須賀川電力センター前の御仮屋にて
★キュウリ奉納
キュウリ2本を持参して奉納すると新しいキュウリ1本+協賛うちわと交換。キュウリは女性会テントで購入も可能。
★服装
宵祭は毎年雨がつきものだそうで、濡れてもよい服装や装備で来るとより楽しめる。
*¹ 明治元年には神仏分離令により、スサノオノミコトに置き換えられてしまうのだが、牛頭天王の信仰は各地に今でものこされている。
*² 『地域における伝統的行事の機能と 位置づけに関する一考察』服部未来子、初澤敏生 共同論文(2021年9月)を参考。
参考資料:
1)『須賀川の今昔』 武藤昌義 著(1978年)
2)京都 祇園 八坂神社 公式HP
3)地域における伝統的行事の機能と 位置づけに関する一考察
服部未来子、初澤敏生 共同論文(2021年9月):福島大学地域創造 第33巻第1号 43-57p/福島大学附属図書館
4)きゅうりの輪切考 保坂和子:市史研究調査ノート18/東京都福生市立図書館
5)『すかっと』巻頭特集 「知ってたつもりのきうり天王祭」2024年6月22日公開記事
取材ご協力:きうり天王祭実行委員、ならびに三丁目町内会の皆さま
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