『guesthouse Nafsha』佐藤美郷さん
美郷さんと出会ったのは2020年のはじめの頃。初めて出会ったときから変わらず真っ直ぐに前を見つめる彼女の瞳に、私はいつも釘付けになります。美郷さんの周りには地元作家の作品やアート、音楽がいつもあって、自宅兼ゲストハウスである『guesthouse Nafsha(ゲストハウス ナフシャ)』は、そんな彼女の暮らしへの向き合い方を感じられる心落ち着く場所です。
会うたびに見せてくれる柔らかな笑顔とは裏腹に、エネルギッシュさにも溢れている美郷さん。その根底にあるのは、地元である福島に「より良い未来を残すため」という想いだと言います。今回はそんな彼女に、ゲストハウスを営むことへの想いと、そこに至るまでの道のりを伺いました。
〝絶対に戻らない〟と決めて離れた故郷
佐藤美郷(さとう みさと)さんは、南相馬市小高区の出身です。自然豊かな小さな町で育ち、中学に進学して吹奏楽を始めてからは音楽の道を夢見るようになりました。高校に入ってからは本格的に音楽大学への進学を目指し、アルバイトをしてレッスン代を稼ぎながら勉学との両立に励みます。
しかし音楽、勉学、アルバイトの3本柱の両立は、そう簡単なものではありませんでした。高校三年の夏、美郷さんの張り詰めた糸はついに切れ、音大進学を諦めることになります。一番辛かったのは親からの反対でした。
「もうちょっと器用に頑張れていたらとか、現実的な金銭面の問題だとか、今となっては色々と原因は思いつきますが、それでも根底にあったのは、やはり〝周囲の理解なさ〟だった思います。そもそも地元で〝仕事〟と言ってパッと思いつくのは、市役所職員や教員などの公務員、もしくは看護師などの医療関係者、あとは農家などの家業の継承です。『親が芸術家です』なんて子は当時一人もおらず、音大に進学した親世代の大人も知りませんでした。両親にしてみれば『音楽でなんて食べていけないから』という親心だったと思うのですが、それ以上にそういった道を〝知らない〟というのが、大きな枷になっていた気がします。」
音楽の道を断念した美郷さんは、自分の世界を広げるためにと語学を学ぶことを決めます。「地元へは絶対に戻らない」という気持ちで故郷を離れ、東京の大学で心機一転のスタートを切りました。
2011年の震災をきっかけに芽生えた思い
大学で英語とスペイン語を学んだ後、彼女は航空会社に就職します。語学を活かして接客がしたいと、成田空港でのグランドスタッフという職を選びました。しかし就職から2年後の2011年、東日本大地震が起こります。福島第一原子力発電所から20km圏内にあった美郷さんの実家も被災し、家族は避難を余儀なくされました。
当時のことについては「まだ上手く思い出せないところがある」と、美郷さんは言います。
〝絶対に戻らない〟と決めて離れた故郷のはずなのに、なくなってしまうかもしれないと思った途端、言葉にし難い寂しさがこみ上げてくる。理解のない閉鎖的な地元が嫌で出てきたはずなのに、どうしてこんな気持ちが生まれるのだろう。そう思ったとき「私は故郷が好きなのかもしれない」と、美郷さんは初めて自覚しました。
「故郷のために何かしたい」と思いながらも、震災直後の当時、素人が現地に入って活動するのは難しい状況にありました。焦る気持ちの中、彼女は兵庫県淡路島でのとある地域活性化事業を見つけます。一年間の期限付きで地域に役立つプロジェクトを立ち上げるというその事業は、特に半分農業・半分芸術という〝半農半芸〟で地域を盛り上げるという点が特徴的でした。「ここに地元で役立つヒントがあるかもしれない」と、美郷さんは参加を決めます。
2011年8月、彼女は勤めていた航空会社を辞め、兵庫県淡路島に向かいました。
人の温かさと〝アート〟に救われた淡路島での暮らし
淡路島では新規就農者のお手伝いや、共に滞在していたアーティスト達との新規プロジェクト立ち上げなど、文字通り〝半農半芸〟の実践を重ねた美郷さん。新しい環境での緊張した日々を変えてくれたのは、滞在から半年が経ったころに出合ったカフェでした。
『Art &Café Nafsha』というそのカフェは、淡路島出身の美術家とその奥様とで切り盛りされている場所でした。その空間に惹かれた美郷さんはアルバイトを申し入れ、働かせてもらうことになります。
芸術家夫妻の営むカフェで、彼女の価値観は大きく変わっていきました。何もかもが想像を超える独創的な空間と、個性的なお客様。福島から遠く離れた淡路島ですが、阪神淡路大震災の経験からシンパシーを感じ、島の皆さんも優しく寄り添ってくれました。その温かさに癒され、感謝する中で、美郷さんは「もっと肩の力を抜いてもいいんじゃないか」と思いはじめたと言います。音大進学が叶わずに潰えたと思っていた〝音楽と共に生きる道〟も、別の形で叶えればいい。芸術は暮らしの外にある特別なものではない。人の心を解きほぐしてくれる、〝暮らしの中に欠かせないもの〟だと確信したのでした。
福島に帰郷。皆で作り上げた『guesthouse Nafsha』
淡路島での滞在後は全国各地に拠点を移しながら、美郷さんは東京で現在の夫となる聡さんに出会います。同じく福島県出身だった聡さんも「いつかは地元に戻りたい」と考えており、2017年に二人は結婚。その後2019年に、聡さんの故郷である福島県須賀川市へ移住をします。
「まずは福島に来る人、暮らす人のための〝場〟をつくりたい」と、ゲストハウスを開業することを決めた二人。地元の職人や作家と共に手を動かし、アイデアを出し合って作り上げられた宿は、淡路島でたくさんの優しさとアートとの出合いをくれたカフェNafshaの名を継いで、2021年に『guesthouse Nafsha』としてオープンしました。
福島でNafshaの名を継ぎ、場を作ることの想いを美郷さんはこう語ります。
「福島でもこういうことが出来るんだよっていうのを、特にこれからの若い世代の人たちに見せてあげたいんですよね。震災後、あんなに嫌いだった故郷がなくなると思った瞬間、〝哀しい〟と思ってしまったように、結局はどんなに煩わしいと思っていても、故郷って簡単に捨てられるものじゃないとも思うんです。それならはじめから〝好きだよ〟と堂々と言えたらなって。〝好きだ〟と屈託なく言えるような故郷を、私はこれからの子たちに残していきたいと思っているんです。そのことを教えてくれた淡路島のNafshaのような場所を、今度は福島につくりたいですね。」
ご予約は〝お手紙で〟。唯一無二のNafshaの魅力。
guesthouse Nafshaの予約方法は〝手紙〟です。時間も手間もかかる方法ですが、互いに手紙の到着を楽しみに待ち、封書を開けて、手書きの文章で相手を感じる時間は、インターネットでは決して味わえない体験でもあります。
また、Nafshaの魅力はその〝つくり方〟にもあります。「福島でもこんなことができるよ」を体現するため、リノベーションや宿づくりに関する多くを、地元の人間と一緒に実践しました。宿となる物件は、聡さんのお父様が40年ほど前に建てた住宅で、ご先祖が育てた木を使って建てられています。リノベーションは地元の大工兼木工作家に依頼し、木材を選ぶところから二人三脚で作り上げました。その他にも、暖簾やカーテンなどのファブリックは古布を利用して制作してもらい、照明やガラス窓などもシーグラスや古い硝子を再利用するなど、福島での〝地産地消〟かつ〝サステナブルな暮らし〟のアイディアを宿全体を通して表現しています。
「日々の暮らしって、物事を〝どう見るか〟で変わっていくと思うんです。そしてその〝視点〟を与えてくれるのが、アートや音楽の中にあるクリエイティビティだと思っています。過疎地域が5割を超えた福島県には、このまま何もしなければ消えていく地域がたくさんあります。震災後、故郷を奪われた時の気持ちを知っている私としては、あんな想いは誰にもしてもらいたくない。『ここには何もない』と諦めるのではなく、できる方法を考えてみる。見方を変えてみる。その余地がまだここにはあるし、私たちの活動は常に『こんな見方もあるんじゃない?』っていう、福島に暮らす人たちへの提案なんですよね。」
あきらめた音楽の道も多くを失った原発事故も、時間を巻き戻すことはできないけれど、これからの社会を少しでも理解あるものに変えていくことはできる。「誇れる故郷をつくるために」と、強い意志と湧きでる使命感とともに歩み続ける彼女の眼差しは、やはり力強く、そして優しいものでした。
guesthouse Nafsha 佐藤美郷(さとう みさと)
福島県南相馬市出身。東京の大学卒業後、成田空港でグランドスタッフとして勤務。2011年の東日本大震災で故郷が被害を受けたことで地方への関心が高まり、同年8月に兵庫県淡路島へ移住。一年間の期限付きプログラムで「半農半芸」での地域活性化事業に取り組む。2019年に福島県出身のパートナーとの結婚を機に須賀川市へ移住し、『guesthouse Nafsha』を開業。宿運営をしながら、ライター業やアーティストとの協働など、福島を知ってもらうための活動も積極的に行っている。
当メディアの発起人・エディター。
▶guesthouse Nafsha公式Webはこちら
▶多拠点クリエイティブチーム『nacre』はこちら
▶ブログ『佐藤夫妻のふくしま移住日記』はこちら
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