『柳沼豆腐店』柳沼幸一さん
福島県須賀川市長沼地区。須賀川市の南西部に広がるこの地域は、かつて長沼城の城下町として賑わいを見せていた。特に城のお膝元である「横町通り」には商店が隣接しており、長沼の中でも一番の繁華街であったと言われている。しかし人口減少と高齢化の波を受け、2022年に長沼地域もついに「一部過疎」として過疎地認定された。
今回は、昔ながらの趣が残る長沼・横町通りで豆腐店を営む柳沼幸一さんに、豆腐店を営むうえでのこだわりや地元への想いについて伺ってきた。
豆腐はもっと身近な〝地域食〟だった
幸一さんの営む『柳沼豆腐店』の他に、長沼には2軒ほど個人の豆腐店がある。最近ではスーパーで買うことの方が多くなった豆腐だが、ここ長沼では、まだまだ「豆腐屋で豆腐を買う」という光景が残っているのだ。
ふと、なぜ長沼には豆腐店が残っているのだろうと疑問が湧いてくる。同じく一部過疎となった隣の岩瀬地域には一軒もないし、そもそも人口6,000人程度の小さなエリアに豆腐屋3軒は、多いようにも思う。そんな素朴な疑問に幸一さんはこう答えてくれた。
「食べるものが少なかった時代、今と違って大豆は結構この辺りで栽培されていたんですよ。それで大豆の加工品である豆腐も盛んにつくられていた。昔は冷蔵技術も物流システムも今みたいに高度じゃなかったから、冷たい豆腐を遠くへ運ぶこともできなかった。だから豆腐は地域でつくって地域で食べる“地域食”だったんですよ。」
昔はどの地域にも豆腐屋があった。幸一さんの子供の頃には、長沼地域だけでも15~6軒の豆腐店が存在していたと言う。中でも長沼に豆腐店が残っているのは、“良質な水”に恵まれているからではないかと、幸一さんは考えている。
では、なぜこんなにも地域に密着していた豆腐店が、今では減ってしまったのだろうか。
「戦後、冷蔵庫ができたり物流が発達したりして、段々と冷たいものも遠くへ運ぶことができるようになってきた。どうせ運ぶなら、一気にたくさん運べた方が効率がいいでしょ?なので大量につくって大量に売る、という供給方法に変わってきたんです。長距離移動に耐えうるように、豆腐自体も日持ちがするようにどんどん開発されていったんですよ。」
現在、福島県のスーパーに並ぶ豆腐のほとんどが県外でつくられたものだそうだ。原材料となる大豆はその90%が海外からの輸入に頼っている。
個人豆腐店には生きづらいと言える現代に、それでも柳沼豆腐店では“昔ながら”のつくり方にこだわっている。
〝昔ながら〟の手作業で仕上げる、こだわりの味。
柳沼豆腐店の創業は1925(大正14)年。今年で創業99年目を迎える。元々農家であった幸一さんの祖父が30歳の時にはじめ、二代目の父、そして幸一さんと三代にわたってこの長沼・金町通りで豆腐店を続けてきた。現在でも県内外からわざわざ買いに来る人がいるという柳沼豆腐店の豆腐の特徴は、“昔ながらの製法”にある。
まず、基本的な豆腐づくりの工程はこうである。
仕込みの前日に大豆を浸水させておく。翌日に浸けておいた大豆を煮て、潰す。潰した大豆は漉し袋に入れて、おからと豆乳に分離させる。絞った豆乳が冷めないうちに“にがり”を加え、ヘラでゆっくりと混ぜ合わせる(これを“寄せ”の作業と言う)。頃合いを見て“寄せた”豆乳を型に流す。この時、型の上に重石を乗せて余分な水分を抜いていく。水が抜けたら型からはずし、一丁ずつの大きさに切る。これで完成だ。
現在ではほとんどが機械化されたこれらの工程だが、柳沼豆腐店ではほぼすべてを昔ながらの手作業でおこなっている。そのため一度につくれる豆腐の数は40丁ほど。日によって多少変わるが、この工程を一日当たり2~3回おこなうと言う。
「祖父の代から変わらないつくり方でやっています。変わったことと言えば、大豆を煮るための火を、薪からボイラーにしたことくらいですかね。」
また、柳沼豆腐店の豆腐の肝となるの“天然にがり”である。海水から塩をつくる過程で出た自然のものを使用しているが、今ではその天然にがりを販売している会社自体も少なくなったそうだ。他にも扱いやすい凝固剤がたくさん出回ってはいるが、天然にがりが一番風味が良くなるからと、幸一さんはこのつくり方にこだわっている。
繰り返しの中で気づくこと、同じものをつくることの難しさ。
父から店を受け継いでから、幸一さんは50年近くもの間、豆腐屋を営んできた。長男が家業を継ぐことが当たり前だった時代、自分も幼い頃から手伝いをしながら、いつかは店を継ぐということに何の違和感も感じていなかった。高校は地元の農業高校の食品加工科に通い、卒業後は地元の会社や個人店でアルバイトをしながら社会人経験を積んだ。
卒業から2年ほど経ったころ、父が体調を崩したことをきっかけに本格的に家業を継ぐことを決めたと言う。
「昔から手伝いもしていましたし、いつかは継ごうと思っていたので、大きな反発も抵抗もありませんでした。自然な流れという感じです。ここで暮らして商いをしているので、商工会や消防団など、一通り地域の組織や取り組みにも参加してきましたね。ずっとこの長沼で生きてきたので、“やらなくちゃ”という責任感や使命感というよりも、当たり前にというか、自然に地域とともに歩んできたという感覚です。」
豆腐づくりの工程は、前日の浸水を除けば1時間半程度で仕上がる。一回40丁、1時間半の工程を2~3回、この作業を50年もの間、幸一さんは日々繰り返し行ってきている。
豆腐づくりの毎日は、一見すると“同じこと”をずっと続けているようにも見える。しかし今回お話を伺って感じたのは、幸一さんのその日々の豆腐づくりが、いかに“変化に富んだもの”であるかということだった。
大豆を浸水させるためには、まず翌日の販売量を予測しなければならない。天候や季節にも左右されるので、こまめな情報収集が不可欠だ。浸水時間も夏場や冬で変わってくるし、外気の温度差により水の温度も毎日一定というわけではない。こだわりの天然にがりを豆乳に加える「寄せ」の作業では、長年の勘をもとに“ちょうどいい”ところに仕上げるのが難しい。しかもこの工程によって出来栄えも大きく変わってくる。
「同じように見える豆腐でも、自分たちにとっては毎日、毎回、ちょっとずつ仕上がりが違っているんです。むしろ同じものを作り続けることのほうに難しさを感じていますね。でもだからこそ面白いし、飽きずにいられるのかもしれません。」
昔ながらの豆腐づくりを続けるために必要なのは、同じことを変わらず繰り返すということよりむしろ、日々起こる小さな変化に敏感に、柔軟に向き合っていく姿勢なのかもしれない。そう思うとあの白くて四角い、いつもの豆腐の中にも、無限の物語が広がって見えてくる。
過疎地で暮らし、生業を続けるということ
2022年に過疎地に関する法改正がなされ、須賀川市の一部でありながら過疎化が進んでいるということで「一部過疎」とされた長沼地域。かつては城下町として賑いを見せた横町通りも、今では柳沼豆腐店を含めた個人商店が数軒残るだけとなった。
今年で70歳を迎えた幸一さん。妻の優子さんと二人三脚で営んできた柳沼豆腐店も、後継者がいないためにあと数年で店をたたむことを考えていると言う。
「無理に続けることは考えていませんが、でももし本気で豆腐づくりを覚えたいという人がいたら、惜しむことなく教えたいとは思っているんです。長沼は地域柄、ちょっと保守的なところがあると言われているんですが、そもそも過疎となった今、悠長なことは言ってられませんよね。なので私としては、新しいことに挑戦したいという人は大歓迎なんですよ。」
今や過疎や少子高齢化は、長沼地域に限ったものではない。ここでどんなに声高らかに「地域活性を!」と叫んだところで、何かが劇的に変わるものでもないだろう。しかし、静かになった商店街で昔ながらの豆腐をつくり続け、店に立ち続ける幸一さんと優子さんの存在を知った今、この「一丁の豆腐」の中に無限の変化の可能性と歴史の蓄積があるように思えてならない。
99年ものあいだ、どんな目まぐるしい変化も受け入れ、乗り越えてきた“昔ながらの豆腐”は、今を生きる私たちに何か希望めいたものを与えてくれるように思う。自分に出来ることは少ないが、これまでの歴史と幸一さんと優子さんの顔を思い浮かべながら、私は今日もおいしく、豆腐をいただくことにする。
柳沼豆腐店
〒962-0501 福島県須賀川市長沼字金町143
営業時間:7:00~19:00
定休日:水曜日・第3木曜日
電話番号:0248-67-2216
FAX番号:0248-67-2299
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